夜明けのハミング

成人発達障害、睡眠障害、愛着障害、複雑性PTSD、低血糖症――らとつきあいながらの半世紀。心理専門家の世界はかなり疑問視している。絵を描いたり歌ったりしながら、ゆるやかに生きる。

いじめられっ子オーラ

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池田理代子作画『ごめんなさい・・・』

 

ご訪問ありがとうございます。

 

「いじめ」のテーマは、うっかり簡単に書けないことの一つですが、昨今ではメジャーなTV番組でも「いじめ後遺症」というテーマでとりあげられるようになっている時代ですね。

私は残念ながら見ていませんが、いかに脳にダメージを与え、どんなに年数がたっても適切に乗り越えていなければ、何がきっかけとなって当時の感覚におちいってしまいかねない・・・どんなに人生全般にわたり重いことかがずいぶんわかってきています。

これは、学校内など子供同士のいじめに限らず、親子問題でも同様ではないか、と思われます。日常的に、たとえ本気ではない、悪気ではなかった、等だとしても、絶えずネガティブなセルフイメージとなる言葉をシャワーのように浴び続ける、ということなどが、その人の自尊心・セルフイメージをいかに破壊してしまうか。

はるかマイナスからゼロ地点まで登るのに、ヒマラヤ単独行というような修行となるか。

 

何の自慢でもありませんが、私はれっきとした「いじめられっ子」のプロでした。

そして、何十年と時を重ねるなか、うっかり声に出しては言いにくいですが、いかに自分にいじめを引き寄せる負のオーラを発していたか、としみじみ思い返されるのです。

このページの上部の画像、唐突に池田理代子先生の初期の漫画作品です。

あの『ベルばら』以前の、初期作品を記憶している、というと、かなりの年代の方ばかりでしょう。あまり知られていませんが、池田さんは、初期の頃は、少年少女主役のかなり社会的なテーマの短編などを描かれており、一度それをリアルタイムで読むと、以後何十年と忘れ難く刻印されるものが多かったです。

この『ごめんなさい・・・』という読み切り漫画をかつて読んだ、という人で、印象に残らなかった、という人はいないのではないでしょうか。

長年記憶に封印されていましたが、近年、懐かしの70年代少女漫画にふれる機会も増え、どうしてもこの作を思い出してしまうのです。

(同作者『生きててよかった』も同様。)

この画像の手前のかわいいお目目パッチリの少女は、クラスの委員長だったか、人気者の美少女、家庭も富裕層だったと。スクールカースト完全上位ですね。名前は忘れました。

そして、その向こうの、陽炎のような目の中身のない白目少女は、やすえ。とてつもない貧困層の母子家庭、きょうだいは多く、とんでもなく暗い雰囲気を背負っている無口な「いじめられっ子」同級生。いつも同じ服。風呂にもろくに入っていないらしく、臭う。スクールカースト圏外。

この作品のことを解説されているサイトを探し、やすえのことは、側にいるだけでカビがはえそうな雰囲気・・・とか、表現されていました。

完全ネタばれあらすじストーリー

ヒロインは優等生の義務感から、いじめ対象のやすえに親切に接するのだけど、お金持ちの自宅に招き、服を与えたりするものの、心を開いてはもらえない。

そんなヒロインに、あこがれの少年は「君がしていることは偽善だ。」と諭す。

そして、地域の絵画コンクールに選ばれたのは、ヒロインの鮮やかな作品ではなく、地味なやすえのリヤカーをひき働く自分の母親の絵。

夕方遅く、ヒロインは張り出されているやすえの絵の前で、奥底の隠れていた感情が動き、その絵を破り裂いてしまう。そして、いじめていた他の同級生達と自分は何も違わないと思い知る。

どんなにいじめられても泣かなったやすえが、その破れた絵を前にして初めて涙する。

その後、貧困と病気を苦に、母親は子供達皆と一家心中してしまい、やすえも死んでしまった。その葬儀に参列し、ヒロインは「絵を破ったのは私です」と周囲に公言することを誓い、心のなかで謝罪する。

 

もう「いじめられっ子」に何の救いもない展開ですが、これ本当につきささる作品でした。あの華やかの画風の池田先生が、白目のどよ~~んとしたやすえを描く。

ヒロインも、結局自分がしていたことはただの偽善と思い知る。

やすえでは嫌われる。

それは、どうしようもない人間の自然な生理的な本能で。

近年の言葉で「生理的に無理」と。

近くにいるだけで、カビが生えてきそうなんだから。。

私も、さすがにこのやすえまではいかなくても、それにやや近い、どよよ~~ん・・・とした空気をしょっていたはず。

中学に入ったら、明らかに不潔にもなった。。

(どうも、その年代になりそうなってしまう女子、というのがいるらしい。)

これは、強いて原因探しをすれば、生まれた家庭環境のなかで、自尊心がなえてしまっていたことにも一因あると思う。

マイナス体験が重なる環境で、卑屈な根性がオーラとして感知されてしまう。

物心ついた頃には、みそっかすで当たり前。

やられやすい空気感をしょっていた。

世のなかすべてのいじめられっ子に共通する、とは言わないけれど、少なくとも自分は、存在しているだけで、誰かのストレスを引き受けるサンドバックとしてそこにいた。

そのままの自分でいい。

とは、よく言われる定番だけど、やすえのままでは駄目なんだ。

人が人を生理的に受け入れられない、というのは、どうしようもない自然な動物的本能で、やすえのままで受け入れられる、なんてことは絶対にない。

昨今の自分は、さすがにかつてはこんなやすえ風だった、と誰かに言っても幸い信じていただけないかもしれない。

それでも、本当に長期にわたり、薄まったとはいえどよよ~ん・・・とした淀んだオーラをしょっていたはず。今もうっすらセットもので。

そのよどみは、誰かにとって都合がよく、こいつには何を言ってもしてもいいんだ、と無意識に認定させてしまう。

そして、最低なことに本人は自分を守るギリギリの自尊心もなく、あたってくるそいつの長所を見て許さなきゃ・・・なんて、健気になろうと努力したりする。バカ一色だ。

(そういうことは、最低限の自尊心・セルフイメージという土台、大地が整いそうになってからにしましょう。)

と言って、やすえを脱して「いじめっ子」になっていい、というわけではないのだけど。

(だけど、せめて心のなかで「ふざけんなよ。バ~カ」くらい言えるようであっていいと思う。それは、自分はやられて当たり前、にはなっていないので。)

あの作品を読んで何十年たったのか・・・

今でも、やすえのままでは、みんな違ってみんないい・・・わけにはいかないんだよ。と、内側から声がする。

 

長文おつきあいいただきありがとうございます。

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