ハミングしながら歩こう

成人発達障害、睡眠障害、愛着障害、複雑性PTSD、低血糖症――「生きづらさ」をゆるくいたわりながら、ゆっくり歩く。どうせなら歌いながら。

父のこと

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私の極めて個人的な過去にまつわる生育歴や、自分の親のことなど、具体的に不特定多数向けのブログで綴ることに大きな意味があるのかわからない。

なので、読まれなくて当たり前、基本自分の為、まぁもしかしたら共感を感じる少数派の人がいるのかも、という前提で書いている。

特に父親に対しトラウマが強い、という場合、暴力魔だったり女性を作って出て行ったり、などがよくきかれる。私の父は、まったくそんなことはない。ただ、平凡なおやじでもなかった。私程度の文章力ではとても表現しにくい人だ。ハンサム、長身、歌えばスターだった。身内のひいき目ではなく、本当にそうだった。お洒落で、うらやましがられる父親だった。

母は、いわゆる典型的な「毒母」だったと思う。ヒステリーで幼稚でわかりやすい。なんらかの「人格障害」だったんじゃないか、と今では思っている。多分、加齢によりおとなしくなってくれているので有難い。

幼い頃、私は父親ッ子だった。なので、ずいぶん長い間、父が「善」で母が「悪」、というシンプルな図式になっていた。いい歳となってから、そんなこともありえない、どちらかだけが善良な人間で夫婦となり何十年と共に暮らせるはずもない。トラウマレベルが似ているから夫婦という特別な縁になる、と言われたカウンセラーもいた。赤い糸は疑問だけど、トラウマの糸はあり得る気がする。

 

母の実家の人々とは、たいへん密度の濃い関係で、実際に住んでいたわけではなくても、祖母や叔母のいた町が故郷だ。

反面、父の育った家庭のことは疎遠すぎる。幼少の頃、祖母の家に訪ねてきた叔母を「おとうさんのおねえさんだ、って言う人が来たよ」と、大人に報告に行った。

もともと、とんでもなくお金持ちだったとか、日本のある世界のパイオニアの家系だとか、かなりの年代になってから、ポツリポツリと情報が入って来た。特に64で亡くなって以降。

父は6人きょうだいの末っ子だ。頭脳明晰、見た目も良く、地域の祭りで選出される特別な神童だったらしい。なんでも出来て当たり前、という大前提・絶大な自信が幼少期から備わっていたのは当然だろう。(お陰でずいぶん迷惑した。)よく出来る、たとえ出来なかったとしても、母親からが末っ子として可愛がられていたようだ。

その母親は、父の大学時代に亡くなった。

父は遥か離れた東京で学生生活を送っていた。そして、母親の危篤を、父や上のきょうだい達誰からも知らされることがなく、最期に間に合わなかった。

あり得ないと思う。

なぜ、父親ときょうだい達はそんな結託をしたのか。

学生だったから、ということが理由になるんだろうか。変な家族だ。父親と言う人は、どうなっていたのか、存在すら私は知らされていない。どんな祖父だったのか、人柄の一端も聞かされたことがない。容貌も知らない。

父はきょうだい達を恨んだ。疎遠の道をとった。当然かもしれない。彼のなかで、何かが確実に乾ききり引き裂かれ、修復不能となったに違いない。極度に感情を麻痺させて。

その後、何年かののち、父は見合いし、あっさりと結婚した。

子供時代の私は、なぜ父ならもっと美人で家庭的な女性の候補者はいくらでもできたろうに、よりによって母を選んだのかさっぱりわからなかった。そうでなくては、自分も存在していない、とは既に頭では理解はしていても、心で納得はいかなかった。少なくとも、当時のフツーの男性として、フツーに望まれる、こぎれいな室内・暖かい家庭料理がフツーに出来るもっと一般的な女性を。

父が望んだのは、母の母。私の祖母だ。地域で評判の才色兼備、かつ家庭のことも何でもできるスーパーウーマン。老いた姿しか知らないけれど、若い頃はどんなに美人だったろう、と、ちょっとそこらにはいない女性だった。誰もが、地域のお坊さんも含め、誰もが祖母には一目置いていた。明治生まれの髪結い師だった。もう「髪結いの亭主」という言葉は死語だろうけど、それほど稼げるキャリアウーマン。美容に命をささげていた。浄土真宗の信仰も強かった。あのおばあちゃんの娘だから間違いないだろう、と思ったと、父の口から聞いたことがある。残念でした。

あの祖母が、義理の母となる。それは、どんなに当時の父に魅力的な取引だったろう。

私の友人にも、父親と先に出会い、この人を義理の父と呼べるなら、と、その息子さんと結婚し上手くいっている女性もいる。

でも、私の両親の場合、どうだろう。家庭内でのコミュニケーションというものは、ある時期から、あるのかないのかわからず、口が裂けても本音などは出せなくなった。転々と住まいが変わることも、ただ仕方ない、と思っていたのか、そういうものだ、と思ってあきらめていたのか。

「家庭のことはとっくにあきらめとる」と、室内も冷蔵庫のなかも常に乱雑な日常に、ポツリとあっさり語っていたものだ。

そう、あの家には「あきらめ空気」が蔓延していた。長すぎる時間を過ごしてはいけない。

見た目もよく生まれた人間のとんでもなさか、外見が残念な人へ容赦ないところが平気にある人でもあった。車を運転しながらも、道行く女性に対し「ヘンな顔の女がいる。面白いぞ。見てみろ。」と、わざわざ車を寄せていく。恥ずかしいからやめてくれ。

なんでも出来て当たり前・・・と言うか、神童呼ばわりされていた父は、出来ないことが本気で理解できない。今でも私は、卵を割る時は一瞬、慎重になる。子供時代、生卵を割るのに失敗し、テーブルにべったりと黄身も白身もこぼしてしまった。

「卵も割れんのか・・・」

その父の口調は、ああ、あれも出来ない、これも出来ない、その上卵一つ割ることすらできないとは、どこまで自分を失望させれば気が済むのか・・・・・・

そういうニュアンスが口調、その場の空気にたっぷりのしみ込んだ落胆しきった者の声だった。

こんな自分に生まれてしまって、何一つ満足に出来なくて、私さえこの地上に存在しなければ世の中はもっと父の気にいるようになっていたかもしれない。

たかが、卵一つ割りそこなっただけで、この世の終わりという実感にはまる。

いまだ、うっかり割った、何かの拍子に割れた卵は嫌いだ。

あまり外で遊べなくなっていた私に、顔色が青白すぎるぞ、見てみろ、と鏡にさらされ、どんなに病的かと説いてきかされた。

その父が歌えば、その声量と表現力、見た目のスター性もあり、誰からも称賛された。よく家でホームパーティーが行われ、ギターを抱えた人らが生演奏していたりした。歌う父の姿には、子供心にほれぼれしていた。最近知ったが、セミプロだったらしい。その時代にピアノなど、生演奏の店で一般人が歌えることはなかったそうだ。

年代も上がり50過ぎから、身体はボロボロになった。たび重なる心臓大手術で、歌えない身体になってしまった。性格はいびつになった。離れて暮らしていたので、あまり詳しく知らないが、すっかり不機嫌なオヤジと化し、どこかに行くたびに、何かのマイナス引き寄せ法則のように、異様に怒っている人と遭遇するはめになったりしていた。

 

そして、私にとっての決定的な事件が、30代後半、父の急逝のほんの少し前の時期になる。詳しくは書けないが、当時のカウンセラーから「あなたの家は、本当におかしい。」と、実感をこめて言われたものだ。

そう、私が育った家は、健全ではなかった。他者にわかってもらえやすいはっきりした要素があったわけではないけれど、空気はしらじらしく濁っていた。本当に肝心なところで、まったくアテにもならず、余りにも当たり前な感情も通じない。生まれた頃にはあったはずの、当たり前の自信・自尊心が、ゆっくりと確実にはがれていく。何も語ってはいけない、本心を感じてはいけない、そんな蔓延する空気のなかで必然的に心を閉ざさざるを得ない。

 

 

決して両親ともに悪い人達ではない。父はある週のカリスマ性もあり、魅力に富む不思議な人物でもあった。

コミュニケーションが上手くないのは、簡単に「日本人は皆そうだ」という一言ですまされてしまいがちだ。外の人達とは明るくつきあえても、家庭のなかでは抑圧されたネガな部分が基本となる。家族には、わざわざプラスのことや褒め言葉を語らない。そうして、負の遺産が、負の思い込みが蓄積される。 気がついたときには手遅れになりかねない。

親の持つ闇、ずるさ、狂気などは、子供が体現することになる。そして、それは親により、子供自らの自主責任となっていくことが多い気がする。

私は、小さい頃から驚くほど、家庭を持つ、ということに夢も希望ももてなかった。今では後悔している。完全に生育家庭に取り込まれてしまっては、冷静に自分の身近な世界を見抜くことは不可能だ。一歩も二歩も引いて、親との境界線を意識的に引き、自分の魂は安全に保つ。家の外の世界をしっかり見つめ、社会性を身につけなくてはいけない。

その上ではじめて、親の苦労や長所を認め、自分をいたわることが可能になる。

父が生きていた時期に間に合わなかったことが、やはり残念だ。合掌。

 

お読みいただいた方がいらっしゃいましたら、こんな長文におつきあいいただきありがとうございます。

多分、個人的すぎる記事は、ある程度の時期で削除することになるでしょう。

 

 

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画像:ばーばら画(父親像)