ハミングしながら歩こう

成人発達障害、睡眠障害、愛着障害、複雑性PTSD、低血糖症――「生きづらさ」をゆるくいたわりながら、ゆっくり歩く。どうせなら歌いながら。

成育歴5(小学校3年)

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これは私の個人的な成育記録です。

いまなら、書けるかもしれない、というところでの、自分の障害や特徴などをふりかえるものです。

成人発達障害愛着障害複雑性PTSDなどにご興味のある方は、ある一人の人間の症例としてなにかのご参考になるかもしれません。時代ごとに項目を分けていきます。

読むことでフラッシュバックが起こる可能性のある方は、読まないでいただくようお願いします。

 

この1年の過酷さが、その後の人生にずっと尾を引いていると思う。

最近になって「子供のうつ病」が少し知られるようになってきているけれど、当時の自分は、この年うつ発症していたのだと今になって思う。

担任はベテランの年輩女教諭。

こうあるべき!という信念の強い、偏った人格だった。

教師にしかなれなかった、とも言っていたらしく、典型的「デモシカ教師」。

その前の年、2年生だった頃、体育館内でその当時のクラスの列から後れをとり、皆からはずれてひょこひょこ後ろから追っている私を指さし「あの子はバカだ。」と言った人。(どうも、中高年女性教師に人格問題のあるパターン、多いらしいけれど。)

受け持った当初、一方的に生徒と約束を言い渡した。

休み時間は外で皆で遊ぶこと。

外で活発に動いて皆で遊ぶ、ということに大きな価値をもっていたんだろう。

私はそれを破っていた。

ときには校庭の隅でぼんやりしていたこともあるし(植物や空を眺めていた)、教室に残って本を読んだりしていたこともあったと思う。(本棚の本は、1年かけて読破したはず。)

なにしろ私の足の遅さは致命的で、同級生たちにまじり走り回る遊びをしても、自分は勿論周囲も面白くなくしらけムードになってしまう。

空気を読んで?遠慮することにしていた。

すでに対等に扱われない、ということに馴れてもきていた。

そして、担任から、約束を守っていない、と言及されることになり、母親に渡すように、と手紙を持たされた。

その担任から家へ持ち帰るプリント類などは、母親が「見ました」と直筆で書いて持ってくるルールだった。

こんなもの、うっかりすぐ激怒する母には渡せない。

担任からは、見せたのか?と更に追い打ちがかかる。

思いつめ、結果、バカなことだけれど、母に筆跡を似せる努力をして「見ました」と書いた。

もちろんバレて、どうなったのかはくわしい記憶は失くしたけれど、母から責められていたことは何となくぼんやり思いだせる。

 

また、私だけ提出物が出ていない、と教室の担任の机に呼び出された。

出しました、と言っても取り上げず、では自分の机の上から探しなさい、と命令を受け、たくさんのプリント類などの束から自分のプリントを探しだした。

一瞥し、あったならそれでいい、という態度で、一言もなく受け取りそれっきりだった。

音楽鑑賞の感想文だった。

聞きながら浮かぶイメージの映像について書き、たくさんの丸がついていた。

 

別途、職員室に呼び出されもした。その以前、クラスの皆に「好きな子と嫌いな子の名前とその理由を書く」という提出があった。その結果、私を嫌いだ、と書いた子が3人いたらしい。

理由は意地悪だから。人にやさしくしなさい。

そう言い渡されて終わりだった。

私も嫌いな子を書け、となっていたから、仕方なくある男の子の名前を書いた。

やはり理由は意地悪にしたと思う。

語彙が少ない当初、誰かを嫌うからには、意地悪しか理由は思いつかなかった。

たいして嫌っていたわけじゃないので、彼には悪いことを書いたと思う。

 

その夏、眼科に通うことになった。

人に感染する可能性のある結膜炎だった。

私の持ち物に触らないように、と言い渡され、即刻バイキン扱いとなった。

 

ある授業中、担任が生徒の机まわりを歩き、私の席のところで歩みを止め、おもむろに私に向かい「あんたのところは親は悪くない。あんたが悪いんだろ」と、当たり前の口調で高圧的に声をかけられた。通りすがりに、「今日は雨ですね」くらいの、当たり前の有無を言わさぬ口調で。

仕方なく、ただうなづいて同意した。

親は悪くない。私が生まれつき悪い性質に生まれてしまったらしい。だから嫌われてしまうんだ。そんなふうに生まれついていたとは、この年までは知らずにすんでいた。

 

当時から、同じ社宅の同級生の女の子2人と英語教室に通っていたけれど、やはり私はみそっかすな最底辺に位置する子供だった。当たり前に損な役回りを押しつけられていた。

もっとあとの時代だったかもしれないけれど、その2人から、帰り道に遊びで目をつぶって数字をいくつか数えるように言われ、その通り数えていると、パッと2人で駆け出し場を離れて行った。

どんな状況だったのか、何を言われたのかよく覚えていないけれど、確かにそれは言われていたダンドリとは違っていた。

騙されたんだ。

一瞬で悟り、追いつけるはずもない遅い足で必死になって追いかけた。

もちろん追いつけるはずもなく、差はどんどん開いていった。

それでもなぜか追い続けた。一生懸命走った。

 

このことに限らず、特にクラスや地域の小集団遊び、女の子集団では、みそっかすで当たり前だった。

嫌がられる役回りが当然としてまわってきていた。

私が鬼となって、皆を探す遊びのなか、ルール違反なはずだけど、皆で誰かの家に入り、私をからかう言葉が聞こえ、バカらしくなって抜けて自宅に戻った。

すると皆で、勝手に抜けた、と攻めに来た。

こういう声が聞こえた、と主張すると、テレビの声だ、と言い返された。あまりにも露骨な嘘を、自信をもって主張してくる。

鬼の立場で勝手にやめるのは100回ぶたれる刑罰だ、とガンと言い放たれた。

どうやって追い返したのか覚えていないけれど、一人になれた。

また、作文発表で、私がこけた姿がおかしくて皆で笑いました、とクラスで読み上げた子がいた。

 

ある日の宿題で、自分の「良いところ」「悪いところ」を考えるというものがあった。そして、翌日その答えをそれぞれ席で起立して一人ずつ発表するということがあり、私は欠点しか思い浮かばなかった。

皆、自分の長所として「やさしい」とか素敵なポジティブな言葉を口にしている。

もうじき自分の順番になってしまう。とてもドギマギ緊張しつづけた。

一人ずつ立ちあがり自分の長所を発言している。もうじきだ。何も言えなければ、どうなってしまうんだろう?緊張はマックスに達していた。

ところが幸いにして、私の席の直前で、発表はストップされ難を免れた。

 

虐げられること、

笑い者であること、

嫌われていること、

みすぼらしいこと、

ヘラヘラと耐えること、

それが自分なので、長所にあたるものを発表しなくてすんだことに、心から安堵した。

これが私の良いところです、と、その担任の前で口にできるほどのタフな精神も、まだ若すぎて養われていなかった。

 

一年おきに、夏休みはずっと祖母の家とその近くの叔母の家で過ごしていたが、この年は行けなかった。

夏休みの絵日記というもので、初日に書いた日記で母にこっぴどく長時間怒られた。

何ページも使い、絵の欄にもさまざまなシーンをアップやロングで描いた。

1日で1ページ、上下に絵と文のみ、という絵日記の掟があったらしい。

3年生にもなって正しい絵日記の書き方も知らない、と夜遅く延々怒られ続けた。「正しい絵日記の描き方」、というものがこの世にあったとは知らなかった。

一体今度はいつまでつづくのか、とにかく長い。正座してうなだれ聞き流し続ける。

眠くもなってくるけれど、その場で寝ても怒られる。意識がもうろうとしてくる。

母の得意セリフは、「情けない」だった。「あなたって人は本当に情けないね」と、太陽が東から昇ることと同様、という口調でたたみかける。

絵日記の描き方も知らない情けない人間に生まれてしまって、本当に申し訳ない。

 

何事も、母が信じるルールから1歩でもずれると何を言われるかわかったものじゃない。やっていいことも、彼女が好むことだ。もちろん、好まないことはやらなくていい。球技など。

ボールを追う、ということにはアレルギーがあるらしく、後年、よそのお嬢さんのクラブ活動にまで「ボールなんか追っかけてどうするのかしら?」と、ケチをつけていた。ただし、野球観戦は大好きな人だ。

私への責め言葉の定番は「情けない」だった。それも、語尾に「ね」がつく。

「あなたって人は本当に情けないね」と、太陽が東から昇ることと同義語、という口調で。 

何年生だったか忘れたけれど、なんでもないときでも、ある朝突然「おはよう」を言わない、と怒りだしたことがあった。

うちでは、朝、おはようと挨拶を交わしあう習慣はなかった。

いつなんどき、母の地雷が爆発するかわかったものじゃなかった。天候予測不能な家庭。

 

この年は、もっとさまざまなことがあった。

両親の大人の問題、ともいうようなことを聞いてしまい、勝手に妄想を膨らませてもいた。

親は離婚するんだろうか?父についていくとすると、叔母とは会えなくなるんだろうか?それは困るな・・・。

などと色々考えていた割には、あっけらかんとなにごともなく日々は過ぎていった。 

 

近年の子供社会では、もう、当時のように集団遊びということ自体消えているし、前もって携帯などでおうかがいをたてて管理されて?遊んでいるのかもしれない。

ルールを自分たちで作ることもあまりないんだろうから、ある意味、安全なのかもしれない。

機械のゲーム主流の遊びなら、さほど自分も困らなかったかもしれない。

 

その年から、明らかに学力はガタ落ちになってしまった。

それ以前までは、全般に授業は易しいと思えていたし、挙手率も高かった。

わからないことが手も足も出ない、いきなり外国に行ったようになった。

ある授業中、分からない人は手を上げるように、という担任の声を真に受けて、私だけ挙手した。なぜかその行為は褒められた。

そして、なにがどう分からないのか質問されたけれど、何も答えられなかった。 

 

家にも学校にも地域の子供社会にも居場所、安全・安心を感じられる場がいちばんない時期だった。

身近に頼れる大人もいなかった。夏休みも自宅で過ごした。ラジオ体操に起こすため、無駄に早起きしなければいけない、という母のお小言とセットで。

あの時期、一気に脳が変質したんじゃないか、と真剣に疑っている。世界は自分にやさしくない。自分だけが無価値だ、と思い知らされる人生へと変容した。

近年のような、子供――小学生も登校拒否、なんて情報は皆無の時代。(勿論、自死も。)

いや、あったとしても、家庭に居場所、安心感がなければ、どんなにヘロヘロでも学校を選ぶ。安全なこもれる家・親元がある子供にだけ許される、登校拒否。

イコール、そんな選択肢を知らずにあの時代生き延びていた人々は、おそらく私だけではないんだろうな、と推測している。

もし、子供の自死、という情報が現代のようにあれば、人口はもう少し減っていたのかしら?

どんなに自尊心をつぶしても、その現実のまっただなかに身を置く以外の選択肢はない。目の前の現実からは、逃げられない。それは、時代が変わっても、子供とはそういう生き物だ。

タチが悪いのは、環境が変われば、年月がたてば、ちゃらになるわけではない。

無意識の底に、油田のように重くにごって沈んでいる。

 

でも、すべてが悪いことばかりというわけではなかった。

あの担任からも、図画では褒められ、2枚提出のうち1枚貼りだすところ、私だけ2枚とも貼りだされたこともある。

本を読んでいる点でも評価されていた。

独自のマルバツ基準が厳しく、きっぱりとした自信・スタイルをもっている人だった。

 

 

身体的な特徴?の記憶で、列に並ぶというとき、なぜかまっすぐラインで後ろに立つ、ということが不思議に出来なかった。

本人はすぐ後ろに並んでいるつもりだったけれど、私の所で急に出っ張りが出来ていたようだった。

 

その年が終わり、その担任は遠方に赴任することになり学校から去った。

最後の全校生徒の前での挨拶で、「皆、自分を忘れない人になってほしい。」と言われていたことを不思議とはっきり覚えている。

他にも挨拶された先生は何名もいたが、そんな言葉は初耳だった。

具体的にどういうことなのか、わかるような教育を日常で示してほしかったと思う。

 

 

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画像:ばーばら画(幼児期の自画像)