ハミングしながら歩こう

成人発達障害、睡眠障害、愛着障害、複雑性PTSD、低血糖症――「生きづらさ」をゆるくいたわりながら、ゆっくり歩く。どうせなら歌いながら。

成育歴4(小学校1年)

f:id:barbara1414:20170614133011j:plain

 これは私の個人的な成育記録です。

いまなら、書けるかもしれない、というところでの、自分の障害や特徴などをふりかえるものです。

成人発達障害愛着障害複雑性PTSDなどにご興味のある方は、ある一人の人間の症例としてなにかのご参考になるかもしれません。時代ごとに項目を分けていきます。

読むことでフラッシュバックが起こる可能性のある方は、読まないでいただくようお願いします。

 

 

引っ越し先は、ほとんど鎌倉市に近い横浜郊外の当時はのどかな地域だった。

広々と広がる田んぼや空き地。この環境で喘息は治癒した。青蛙と友達になった。

春にはレンゲが広がる、のどかな風景。

 

転校した学校での担任は、まだ若い世代の男性教諭。

とても危険な人物で、こういう人が特に低学年を受け持てる、というのも時代だったのかもしれない。

あとで思い返すと、ロリコンだったと思われる。

好みの女の子達を机にならべ、膝に抱き抱えたりしていた。

特定のかわいい好みの少女を自宅に呼んだりもしていたようだ。

それ以上のことはなかったはずだけど。

かわいい少女路線とは無縁だった私は、他の女の子達同様にその机に座ることさえ許されなかった。

あっさり「どきなさい」と脇にやられた。

それよりも、あるプリントを自宅に持って行くもの、として渡されたけれど、家ではそれは学校の渡さなければならないものだから、と、かなり遠い距離の学校まで帰宅後再度持って行かされた。

なんだかわけがわからず、とても混乱していた。

やっと再び教室に戻ったときには、鼻血が出てフラフラしながらその担任にプリントを渡した。

多分、その担任の思い違いからそうなったのだろうけれど、何か気遣われる、ということもなく、あっさりとそれを手に取りそれっきりだった。

家と学校を不安を抱えながら、理解も出来ずフラフラ精一杯歩いた――なんだか、その当時の象徴的できごとだった。

当時の教員事情はどうなってたんだろう?今ほど教育委員の目などが光っていなかったので、野放しだったのかな? あの少女達への溺愛光景、自分への冷たさ、思い出したくないけれど忘れられない。

 

周囲の他の子供達同様に運動が出来ない、ということが、徐々に困難となってきていた。

運動会だけではなく、日常生活での集団遊びに困難を感じるようになる。

好きではあったけれど、必然的に一人遊びに拍車がかかる。

その後もずっとだけど、学校への忘れものも頻繁だった。

一発でランドセルをしょって登校できない、とずっと母から言われていた。

整理整頓も苦手でだらしない子供時代が本格的にはじまっていた。

 

お読みいただきありがとうございます。

ブログ村に参加しています。クリックいただけると励みになります<(_ _)>。

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 生きづらさへ
にほんブログ村