ハミングしながら歩こう

成人発達障害、睡眠障害、愛着障害、複雑性PTSD、低血糖症――「生きづらさ」をゆるくいたわりながら、ゆっくり歩く。どうせなら歌いながら。

成育歴3(幼稚園・小学校入学時代)

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これは私の個人的な成育記録です。

いまなら、書けるかもしれない、というところでの、自分の障害や特徴などをふりかえるものです。

成人発達障害愛着障害複雑性PTSDなどにご興味のある方は、ある一人の人間の症例としてなにかのご参考になるかもしれません。時代ごとに項目を分けていきます。

読むことでフラッシュバックが起こる可能性のある方は、読まないでいただくようお願いします。

 

 

厳しい時代になった。

この当時の土地での記憶は色彩がない。当時、東京でも公害の厳しい地域だった。風呂なしの入院病棟のような造りの社宅。

私一人、母の実家に預けられることもよくあった。

その近くに住む叔母と過ごすことが嬉しかった。

すでに睡眠障害の傾向があったのかもしれない。

眠る前によからぬ不安がよぎり、火事にならないように、怪獣が出ないように、一本足のおじさんが来ないように(祖母宅の近くにいた身体障害の方。とんでもなく不適切なおどし対象とされていた。)、と祈りながら眠りについていた。

幼稚園の夏休みが過ぎても、一人、祖母の家にいた。

園の先生から、カトリック幼稚園だったためお祈りを忘れないように、とお便りがきた。

父から電話で「幼稚園はとっくに始まってるぞ」と言われたけれど、なぜ一人で迎えもなく過ごしているのかわからなかった。

母はしばしば情緒不安定で、突然爆発的に怒りだしとまらなくなる。

赤ん坊ならまだしも、幼児―意思を持ち始めた人間を育てるには不向きだ。

頼れる親族も身近にはなかった。父はたいてい帰宅は遅い。

私は父親ッ子。

幼稚園で、おとうさんの絵を描く、というよくあるテーマのお絵描きがあり、父のいつもの帰宅後のリラックスした姿をリアルに描いた。

緑のヨレヨレの浴衣姿で頭もボサボサと、我ながらよく観察していたと思う。

その絵は、母から激怒された。

彼女の望む絵ではなかったので。

他の多くのサラリーマン家庭の子供たちは、パリッとした背広姿の父親像だった。

「上手いくせにちゃんと描かない。」――その後もよく、そういう表現をする人だった。

「こんなものは父に見せられない」と怒り狂っていたので、望むようなシーンのあり得ない場面を描いてあげた。サービスで母の姿も入れてあげた。

やればできるじゃないか、というような意味合いの言葉でその絵は喜ばれ、しばらく室内に貼っていた。

なるべくその貼られた壁を見ないように過ごした記憶がある。

実態とはかけ離れた、どこの家だかわからない一軒家になっていたし、見たこともないような両親の一場面という設定。

描きたい絵じゃない、正直な絵は喜ばれないーーー。

この思い込みが、今日まで多分鋭いつめ跡を残している。

 

何事も、母の好みの範疇かどうか、で天国か地獄か――という状況はずっと続いた。

幸い、映画・音楽・文学など芸術面は両親に好まれていたので、情操教育という面ではありがたかった。

 

また、当時、かなり難聴になっていた。

耳鼻科に通っていた。

聞きたくない言葉が増えていたのだと思う。

狭い室内の端から声をかける母の言葉が聞こえない。

「大きな声で言って」と言ったところ、耳元で「大きく言ってるでしょう!!!」と、いきなり怒鳴られた。怖かった。内臓も凍りそうだ。

ある朝、通園バスに乗らなければ行けないはずだけれど、延々と何かのおまけの「なぞなぞブック」を紛失したことでしぼられた。母の前で、正座してしょぼんとうなだれていた。

そこまで重大な物だったのだろうか?

 

なんの病院だったのか、母が病院に行った帰り道、うしろからパン! と背中をおした。妹の手をひいていたので、自分もスキンシップのつもりだったと思う。

ふりかえりざま、般若の面相で「なんのために病院に行ったと思ってるの?!」と、猛烈に怒りどなられた。

とにかくよく怒られた。

それでも、悪いことばかりではなかったけれど。

 

幼稚園では活発でなくても構わなかったので、ありがたかった。

おとなしい子供で、周囲の子供社会への膜は、よりしっかりしたものになっていたと思う。

対等に輪のなかに溶け込める、という感覚はもてない。

運動がとても出来ない、ということを自覚することになったけれど、まだ、さほど困らなかった。

極端に恥ずかしい思いをしなくてすんだ時代だったと思う。

当時は、頭は良かった。知能テストらしいものがあったけれど、簡単すぎると冷静だったと思う。

とにかく本が好きなオタク子供。

「もう、こんなに分厚い本読んでるの?」と、園の先生に驚かれていた。園内での先生の読み聞かせが好きだった。

母も紙芝居読み聞かせなどは、がんばってくれていたらしい。記憶にないけれど。

両親の好みで、映画にはよく行った。ディズニーアニメのキャラクターを真似てダンスしていたらしい。

集団社会以外では、ひょうきんな面もあったっぽい。

幼稚園の女の子達からは、おとなしすぎたからか、いい様に扱われていた傾向もあり、とてもたくさんの色数のあるクレヨンを持っていたけれど、何本も持って行かれ箱はスカスカになってしまった。

これも母から、長時間怒られた。怒りだすと、とにかく長い。

女の子たちは、グループになると、それぞれ口々に母親自慢のようなときがあった。

自分だけ言える言葉が出てこなかった。

私のお母さん、こんなに優しいんだ、というようなことを、他の子供達は平気で口にできていて、すごいな、と思っていた気がする。

私の母も、悪い時ばかりではないはずだけど、きっぱり公言できる何かに欠けていた。

隣の男の子の兄弟と仲が良かったけれど、その家の金魚を死なせてしまう、ということがあった。

そして、夏休み明けだったか、母親が園の先生あてに書き込むシートのようなものがあり、他の子供の親はわが子も読めるように平仮名で「いい子にしていましたね」というような文面だったようだけど、私の母が書いたものは漢字で埋め尽くされ、何かよからぬ金魚のことをいいつけられているに違いない、という不安感いっぱいで文字を眺めていた。

読めない文章がただただ怖かった。

 

この時期だったと思うけれど、既に車酔いや体温調節?が難しく、お店の冷房などにも弱かった。

タクシーに皆でのりこみ私だけがすぐに酔う、というパターン。

気分が悪い、と訴えると「あながたおかしいんだから、我慢しなさい」と、きっぱり言い放つ母。デパートの冷房がきつく寒い、と言っても同じ。

「異常だから」、とも言われた記憶がある。気のせいだといいのだけど。

私がおかしいのだから、我慢しなければいけない。

一体なにがどうおかしかったのか、何故、父は反論してくれなかったのか。

 

当時、この記憶はほとんどないのだけど、妹とともに喘息にかかっていた。

このカトリックの幼稚園時代、というものが、唯一安全な集団社会生活だったと思われる。

「主の祈り」という文語調のお祈りを、日に3回唱えていた。

 

天にまします我らの父よ、

願わくは、御名をあがめさせたまえ、

御国を来らせたまえ。

御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。(略)

 

我らの父、とは、どこの父だかわからなかったけれど、私のおとうさんではないことは確かだとなぜか確信していた。

この言葉を繰り返すだけでも、マントラのような効果があるのかもしれない。

 

小学校に入学後、すぐに引っ越しが決まり、5月下旬に転校することになった。

入学した当初の担任は、女の先生。

下校時にみなそれぞれ頭を下げ、その先生に帰りの挨拶をする。

あるとき、私がペコンと頭を下げ「先生、さようなら」と声を出して歩いていたら、後ろからランドセルをパン!とたたかれ、明るい顔で「ちゃんと言えたじゃない!」と声をかけてくれた。なぜだか喜ばれている、という不思議な事態にぼけ~っとしていた。

どうも、私はほとんど声を発していなかったらしい。

その先生が、転校するということで家まで来てくれた。

こっそり?立ち聞きしたところ、「やっと他の子と話ができるようになってきていたのに、残念です。」と言われていた。

自分が話せていなかった、という自覚がなかったので、とても印象に残っている。

良い担任だったのに、残念だった。

 

母の不安はこの頃から膨大になっていき、頼れる人もなくいっぱいいっぱいだったんだろう。

父との関係を育んで結婚したわけでもなく、赤ん坊ではない意思をもった人間になりつつある幼児と赤ん坊、苦手な家事。

裕福に育ったので、お風呂もない様な暮らしもショックだったようだ。

地域に大水があふれたとき、私を背中におぶい、膝までの水のなか、ザバザバ小さな体でがんばっていた。

気丈すぎて、弱音を見せられない性格だったのも災いしていたと思う。

父はノー天気に歌っている人だった。

良妻賢母、という呪縛にも縛られていたんじゃないか。

だとしても、色々背景があるとしても、あの怒り方は特に幼児には程度問題だと思うのだけど。思い出すと、しびれた感覚が走る。

子育てを女性一人でしなくていい世の中になりますように。

 

NHKおかあさんといっしょ」の歌の歌詞、「大人になっても忘れない♪」――大事なことを大人になっても忘れないんだ、と心に誓った時期のこと。

 

画像:ばーばら画