ハミングしながら歩こう

成人発達障害、睡眠障害、愛着障害、複雑性PTSD、低血糖症――「生きづらさ」をゆるくいたわりながら、ゆっくり歩く。どうせなら歌いながら。

成育歴1(赤ん坊)

f:id:barbara1414:20170612222006j:plain

これは私の個人的な成育記録です。

いまなら、書けるかもしれない、というところでの、自分の障害や特徴などをふりかえるものです。

成人発達障害愛着障害複雑性PTSDなどにご興味のある方は、ある一人の人間の症例としてご参考になるかもしれません。時代ごとに項目を分けていきます。

読むことでフラッシュバックが起こる可能性のある方は、読まないでいただくようお願いします。 

 

大昔の話になるけれど、親は転勤族。

私は幼稚園に入園した土地は、引っ越し3か所目のところだった。

胎児期も含めれば、4か所目。住環境は、その後も点々と変わり続けていた。それは、当たり前のこととして疑問にももたなかった。

生まれたのは山口市

両親は当時ありがちな見合い結婚。

ただ、母の仕事の都合で別居結婚だったことは珍しかったのだと思う。

私の出産ぎりぎりで同居。父は母の実家に週末通っていたらしい。

お互いがきょうだいの末っ子。その時代にしては、どちらも裕福な家庭で(特に父の成育家庭は)、戦中戦後の食べ物での苦労などは珍しく少なかったらしい。

父の母は、父が大学時代に他界。父の家庭のことは、とても遠い存在でほとんど知らされていない。(戦前までは、とんでもなく大金持ちだったらしい。)

父の父という人が、私の高校時代くらい?に亡くなったらしいのだけど、それまで生きていた、と知らされていなかったので、とても驚いたのだけど、なぜか質問もできない空気感だった。

母の父は、私の出産1年くらい前に他界。

地域でもとても目立つ、才色兼備の多い家系だったようで、祖母の美貌と頭脳明晰さは有名だった。大好きだった亡き叔母も、若い頃、写真館から頼まれて撮影した写真が店頭に飾られていたらしい。有名な美人だった。

残念ながら、末っ子だった母には美貌のDNAはゆきわたらなかったけれど・・・。

そして、当時では珍しく、母の2人の姉と兄、3人とも離婚経験者。当時は子供なし。私が祖母にとっての初孫にあたる。

ずいぶんたってから知ったけれど、姉・兄たちが離婚していたぶん、絶対に自分は離婚はしない! と、母は心にかたく誓っていたらしい。そして、親族から母一人はなれ、各地を転々とすることに。

私の出産がいよいよ近くなり両親同居したので、ほとんどお互いをよく知るような時期はなかったはず。

そして、同時に母が愛した職場を去ることになる。おそらく母の人生で最も、水を得た魚になれた職場だったのだと思う。

タラレバを言い出したらきりがないけれども、もしも中国地方のあの地域に長く暮せ、祖母や叔母たちとも物理的に近ければ、その後の母の精神状態、私の状況もずいぶん違ったんじゃないかな。

日本の核家族がはじまって定着に向かう時代。

大きななにかを落っことしながら、高度経済成長まっしぐらに豊かさを追っていった日本。子育ては主婦一人。

父親は会社と結婚しているような状況は当たり前だった。

 

母は、近年ではノイローゼという言葉は死語かもしれないけれど、ひいきめに言っても相当な「不安神経症」「情緒障害」だったと思う。今となって思うと、「境界性人格障害」に「自己愛性人格障害」もブレンドされていた気がする。異常な怒りをコントロールできず、決して自分の非を認めず謝れないところは、「自己愛性」じゃないだろうか?

とても社交的で快活、人付き合いの得意な頭の良い人だけれども、内側にとんでもない怒りを抱え込んでいた。

本人にあまり自覚のない、巨大な地雷をかかえた人だったと思う。

(若い頃、ホロスコープチャートというものを作ってもらったことがあるけれど、それを見た星占いの人が、「こんなに怒りのエネルギーの強い母親は見たことがない」と言われたことがあるのを思い出した。)

ひとたびその地雷を踏んでしまったら、もう手がつけられないののしり、言葉の暴力、異様な周辺への空気、発狂状態。機嫌が良ければ、それはそれはニコニコしている。

 

とにかく、まったく記憶にあるはずはないけれど、赤ん坊時代の私は、やたら大泣きし、大笑いもしていたらしい。

夜泣きはひどく、神経質でかすかな物音でもすれば大泣きだったらしい。

当時長く滞在していた叔母によると、なんとなく変わっている赤ん坊、という印象だったようだけれど、露骨な大喜びもしていたらしい。

父は転職活動をしていたようで、その関係で両親ともに留守の間、少しの間祖母の家に預けられていたらしく、原因不明の体調不良が初めてあらわれる。

医師もはじめ原因がさっぱりわからず、結果、今、両親がいないから、ということを言われたらしい。

その後、幼い頃は、何度も何度も、私一人祖母の家に預けられることになる。それも何故か当たり前のこととして受け止めていた。

 

生まれた家は、広い一軒家。

その冬、その地方に珍しく大雪があり、部屋の中まで粉雪ま舞い踊っていたらしい。

外の庭には藤棚。小さな川が流れ、有名な聖堂の鐘の音が響く土地。

もう焼けてしまった古いバスク建築の聖堂が、乳母車での散歩コースだったそうだ。

あの土地で長く暮らせたら、どんな人生だったんだろう?

 

 

私的な文章をお読みいただきありがとうございます。

 

ブログ村に参加しています。クリックいただけると励みになります<(_ _)>。

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログ 生きづらさへ
にほんブログ村